夫の最後の時 2夫の最後の時 2 +++ 最後の始まり +++ あれは12月25日の夜が更けて、26日になってしまった夜中の1時半くらいだった。 母屋の義母から電話。 「むーむーDがお腹が痛いって言ってね、病院に行きたいって言ってるよ。」 私、急いで母屋にかけつけ、これは(2007年)1月に経験した静脈瘤破裂だとすぐに察知し、病院の救急に電話をした。 というのは、2007年2月5日のmy日記『my 夫くん はぁ~~』 に書いたように、知らなくて恐い経験があったからだ。 電話に出た救急外来の看護師さんに夫の状態の説明をし、 はっきりと、 「静脈瘤破裂のような気がします」 と言い そして長男の車で救急外来へ向かった。 待っていたさっきの看護師さんとも話をし、その日の当直内科医Aも救急へ降りてきた。 そのA内科医、夫を見て言った。 「ああ、これは打ち身でしょう。内科じゃなくて整形じゃ~ん。」 そう軽く言って、夫の側へ行き、胸を触診し、 肋骨の8番目が折れてるなど言い、湿布薬を処方しておわり。 夫がその部分が痛いというのはカルテを見れば解かるはずだ。 塊があって腹水が溜まると突っ張って痛くなるのだ。 骨折なんかではない。 私、「2~3日前から血便が出てるって言ってます。静脈瘤破裂だと思って来たんですけど。」 A内科医、 「はっきりとは言い切れないから、診ていく必要はありますが、今は大丈夫でしょう。」 そのA内科医、夫のカルテを見ながら、 「ああ、何度も入院してるんですね。最後の退院は今月の12日で、今日も外来で腹水を抜いてるんですね。」 とも言っていた。 そこまでカルテを見ていて、緊急な危険を感じないのか不思議な医者だ。 とにかくその場はそれで一旦家に帰された。 肋骨のところに、出された湿布薬を貼って。 それが午前3時ごろ。 夫は起き上がることが一人でできず、手伝ってもらい、車まで車椅子で行き、車の乗り降りはささえてもらいながらやっとできる状態。 家に着き、寒い、寒いと言いながらやっとベッドに入った夫。 私も一旦、自分のベッドに横にはなった。けど眠れない。 3時半ごろ、再び義母から電話。 「むーむーDが血を吐いた。また病院に行くって言ってるよ。」 急いで再び救急外来へ電話。 吐血の量を聞かれる。その時は100ccくらいだったような。 そしてもう歩けないので、救急車で行くと伝える。 救急車が来た。 救急車に乗るまでは夫の意識はクリアだった。 乗ってからほどなくして、すごい量の吐血。バケツ一杯くらい。 救急隊員もあせる。そして夫を励ます。 夫の意識はなくなる。 救急隊員、 「むーむーDさん、頑張ってください!もう少しで着きますからね。」 やっと救急外来へ着くと、手術可能な救急室へ入る。 「あぁ致命的な量だな~」 と医者たちが言っているのが聞こえる。(救急車の中で吐血した血液の量を測っている。) さっきのA内科医がまた降りてきた。 私と顔が合って出てきた言葉。 「偶然ってあるんですね~」 とヘラヘラしながら。 なに?偶然って何のこと? 骨が折れてることと破裂のこと? 肋骨なんか折れてない。 静脈瘤破裂が湿布薬でおさまる? そのすぐあと、修羅場になったのでこのことはどうでもよくなった。 ベッドでもがき苦しみのたうちまわり、やっと点滴入ったらしい夫。 それから先は私は見てない。 そしてまともなT内科医さんが出てきてくださり、 (このT内科医さんはなにかあった時には私が駆けつけますからね。 と言ってて、その約束を守り続けてくれている方。) 夫は静脈瘤破裂をしていて、糖尿病、腎臓病、その他いろいろ併発している肝硬変末期であり外科的治療はできないため、 1、内視鏡的止血術をします。ということ、 2、そして血液凝固剤を使うこと、 3、輸血も必要ということ。 の説明を聞いて承諾書を書いたのが、午前5時ごろ。 内視鏡で止血しようとしてカテーテルを入れようにも、血液があふれてきて、どうにも入らなく、しかたなく食道にバルーンを入れて膨らまし、血を止めてるのですが、脇から出てきて止まらなく、今、内視鏡室からICUへ移しました。 とT医師から告げられたのが26日の午前6時ごろ。 私、「では子供たちをみんな呼んだほうがいいですか。」 T医師 「はい、そうしてください。」 つづく 前のページ 次のページ |